2009年11月12日
生きる意味って何?
どうも、かつをです。
さて、今日は「生きる意味」という深遠なテーマについて迫ってみたいと思います。笑
僕達の生きてる意味って何なんでしょうか?
いったい、何のために生きているんでしょうか?
自分の幸せのため?
大切な人のため?
社会のため?
それともお金のため?
単純に考えれば、「人は幸福のため」に生きている。
これは、きっと正しい答えだろうけど、でもそれがなんだと言うんだろう?
自分はいずれ死んでしまうし、大切な人だっていずれかは死んでしまうし、そもそも人類だっていつかは滅びてしまう。
自分が何をやっても、あるいはやらなかったとしても、それは無意味だし無価値だ。
「人は幸福のために生きている」というのは公理みたいなもの。
公理というのは、証明はできないけども、誰が見ても明らかに正しいもののことを言う。
では、正しさの根拠をどこに求めれば良いのか?
生物学的には、すべての生物は自らの遺伝子をたくさんコピーすることだ。
これは生物学的には正しいけど、だからといって、この通りに行動すれば幸せになれる保証はない。
そもそも、生物は化学的な反応によって、もっとたどれば物理的法則に基づいて活動している。
なら、物理法則に正しさの根拠を求めれば良いのか?
でも、物理法則なんてものに意味なんてない。
そこにあるのはただのルールだけだ。
そもそも、化学反応だって物理法則に則ったただのルールだし、遺伝子をたくさんコピーするというのもDNAにプログラミングされたただのルールだ。
DNAのルールに従って活動しているヒトという生物が創り出した社会だって、そこにあるのはただのルールだ。
結局、どこにも意味なんてない。
でも、「生きる意味」を問う前に、そもそも意味を問うことの意味ってあるんだろうか?
意味なんて「ない」とか「ある」とか言ったりするけど、だとしたら「ある」って何だろう?
ここにドーナツが「ある」。
でも、ドーナツの穴は本当にあるのか?
ある?
けど、ドーナツがなくなったら、ドーナツの穴もなくなるよね?
だとしたら、ドーナツの穴は「ある」というより、むしろドーナツによって「作られている」と考えるべきだ。
「ある」には二通りの意味が「ある」。
一つはドーナツのように、それだけで「ある」という状態。
そしてもう一つは「ドーナツの穴」のように、なにかが「ある」ことによってはじめて「ある」という状態が生じる状態。
そうやって考えて行くと、「意味」というのはいわば「ドーナツの穴のそのまた穴」ということに気がつく。
まず精神というのが肉体というドーナツの穴で、そしてその精神の穴が、意味。
精神というのは肉体があってはじめて「そこにある」ものだし、そして意味というのは精神があってはじめて「そこにある」。
意味というのは「ある」というより、精神によって「あられる」ものということ。
要するに、「生きていることに意味があるか」という問いは、まるでドーナツの穴が、「ドーナツはあるか?」って問うてるようなものだ。
生きていることに意味があるんじゃなくて、生きているから意味も「ありえる」。
意味というのは、意識すれば何にだって「ある」、というより「見出される」。
例えば、一万円札。
これは人が勝手に一万円の価値が「ある」と「意味づけている」。
世の中の皆が「ただの紙切れ」と思った途端、一万円札から「一万円の価値」という意味はなくなる。
だからといって、そこに一万円札の紙切れがなくなることはない。
じゃあ、どうしろって?
それこそ、僕達の仕事じゃん?
自分の人生に意味をつけるのは。
でも、確かなのは、人は意味を見出すのが大好きな生き物ってことと、意味を付けるというのはとっても楽しいということ。
「あって当たり前」だったものが実は「なかった」ら、確かに苦しいし空しい。
でも「元からなかったもの」が作れたり見つかったりするのはうれしいし楽しい。
「生きる」は「ある」ことに対しては、「意味」よりずっと強い。
だから、たとえ「生きる意味」が見出せなくても、それは別に気にすることでもないし、悲観する必要もない。
と僕は「生きる」を意味づけている。笑
「踊るんだよ」羊男は言った。
「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい? 踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。」
ダンス・ダンス・ダンス(上)、村上春樹
参考文献
404 Blog Not Found:意味の有無を問う(無)?意味
さて、今日は「生きる意味」という深遠なテーマについて迫ってみたいと思います。笑
僕達の生きてる意味って何なんでしょうか?
いったい、何のために生きているんでしょうか?
自分の幸せのため?
大切な人のため?
社会のため?
それともお金のため?
単純に考えれば、「人は幸福のため」に生きている。
これは、きっと正しい答えだろうけど、でもそれがなんだと言うんだろう?
自分はいずれ死んでしまうし、大切な人だっていずれかは死んでしまうし、そもそも人類だっていつかは滅びてしまう。
自分が何をやっても、あるいはやらなかったとしても、それは無意味だし無価値だ。
「人は幸福のために生きている」というのは公理みたいなもの。
公理というのは、証明はできないけども、誰が見ても明らかに正しいもののことを言う。
では、正しさの根拠をどこに求めれば良いのか?
生物学的には、すべての生物は自らの遺伝子をたくさんコピーすることだ。
これは生物学的には正しいけど、だからといって、この通りに行動すれば幸せになれる保証はない。
そもそも、生物は化学的な反応によって、もっとたどれば物理的法則に基づいて活動している。
なら、物理法則に正しさの根拠を求めれば良いのか?
でも、物理法則なんてものに意味なんてない。
そこにあるのはただのルールだけだ。
そもそも、化学反応だって物理法則に則ったただのルールだし、遺伝子をたくさんコピーするというのもDNAにプログラミングされたただのルールだ。
DNAのルールに従って活動しているヒトという生物が創り出した社会だって、そこにあるのはただのルールだ。
結局、どこにも意味なんてない。
でも、「生きる意味」を問う前に、そもそも意味を問うことの意味ってあるんだろうか?
意味なんて「ない」とか「ある」とか言ったりするけど、だとしたら「ある」って何だろう?
ここにドーナツが「ある」。
でも、ドーナツの穴は本当にあるのか?
ある?
けど、ドーナツがなくなったら、ドーナツの穴もなくなるよね?
だとしたら、ドーナツの穴は「ある」というより、むしろドーナツによって「作られている」と考えるべきだ。
「ある」には二通りの意味が「ある」。
一つはドーナツのように、それだけで「ある」という状態。
そしてもう一つは「ドーナツの穴」のように、なにかが「ある」ことによってはじめて「ある」という状態が生じる状態。
そうやって考えて行くと、「意味」というのはいわば「ドーナツの穴のそのまた穴」ということに気がつく。
まず精神というのが肉体というドーナツの穴で、そしてその精神の穴が、意味。
精神というのは肉体があってはじめて「そこにある」ものだし、そして意味というのは精神があってはじめて「そこにある」。
意味というのは「ある」というより、精神によって「あられる」ものということ。
要するに、「生きていることに意味があるか」という問いは、まるでドーナツの穴が、「ドーナツはあるか?」って問うてるようなものだ。
生きていることに意味があるんじゃなくて、生きているから意味も「ありえる」。
意味というのは、意識すれば何にだって「ある」、というより「見出される」。
例えば、一万円札。
これは人が勝手に一万円の価値が「ある」と「意味づけている」。
世の中の皆が「ただの紙切れ」と思った途端、一万円札から「一万円の価値」という意味はなくなる。
だからといって、そこに一万円札の紙切れがなくなることはない。
じゃあ、どうしろって?
それこそ、僕達の仕事じゃん?
自分の人生に意味をつけるのは。
でも、確かなのは、人は意味を見出すのが大好きな生き物ってことと、意味を付けるというのはとっても楽しいということ。
「あって当たり前」だったものが実は「なかった」ら、確かに苦しいし空しい。
でも「元からなかったもの」が作れたり見つかったりするのはうれしいし楽しい。
「生きる」は「ある」ことに対しては、「意味」よりずっと強い。
だから、たとえ「生きる意味」が見出せなくても、それは別に気にすることでもないし、悲観する必要もない。
と僕は「生きる」を意味づけている。笑
「踊るんだよ」羊男は言った。
「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい? 踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。」
ダンス・ダンス・ダンス(上)、村上春樹
参考文献
404 Blog Not Found:意味の有無を問う(無)?意味
investor46 at 20:14